労苦亭備忘録

記録用です。

2020/5/6と2020/5/7の日記 ヤバヤバひねくれ太郎

寝つつ読書しつつ寝つつを繰り返している。

スピードは遅いし頭に入ってんのかも謎だが、とりあえず一通り目は通している。

 

夜からピアサポの卒業生でZOOMを用いた飲み会をした。最近何かとZOOMだなんだと言われてるのは知ってたけども特に利用することはなかったのではじめてだった。

時間になって、会議に参加すると、司会のHくんはまだ来ておらず、Yくんと私だけだった。30分遅れでHくんはやってきた。近況報告をしつつ、誰も来ねーなーとだらだらやっていると、会ったことのない先輩のMさんと、大学の学生相談室のカウンセラーをしていたWさんがやってきた。

個人情報は書く気がないので詳細は省くが印象に残ったことについてのみ記す。

聞いた話によるとコロナの影響でZOOMを用いてのカウンセリングが行われているらしい。また発達障害などの自助グループのミーティングがZOOMを通して行われているらしい。

コロナ以後も続いていくのかはわからないが、面談にわざわざ出向くのではなく、ZOOMでの面談も選択肢の一つとして定着していったらいいだろうと思う。

 

また私が適当なことをペラペラ書くと誤解されそうなので出来る限り丁寧に書きたいと思うが、ZOOMでの会議で最も面白いなと思った瞬間がある。

はじめてZOOMにて会った先輩がみんなはどういうことをしているの?と聞いて、それぞれがパートタイマーをしています、院生をしています、プログラマーをしています、と話したのちに自分は◯◯会社でダイバーシティインクルージョンな仕事をしているんだ、と言ってダイバーシティってわかる?と聞いてきたのちに私が二、三、応答して会話が盛り上がらないと「じゃ、他の用があるから」と退出していった。私はもうめちゃくちゃ面白くって笑い出しそうだったのだが、失礼なのでそういうことはしなかった。

何が面白いかってダイバーシティで、インクルージョンな仕事をしてシャイン☆している先輩がこの集まりつまんねえ!と判断して早々に去っていったのがたまらなく面白かったのだが、こういうことを参加していた大学の後輩に言ってもあんまり同調してもらえないだろう。私はいつだって一人だ。

誰をも受け入れるつまんねえ馴れ合いの集まりこそ、私は最高に楽しく素晴らしい稀有な場だ!と称揚したくなりすらするのだが、たぶん私以外の参加者は「つまんねえ馴れ合いの集まり」とは認識していないし純粋な楽しい場だと認識しておりこの断絶は深く大きく私は孤独なのだった。

私はすぐに客観的に見てしまう。第三者から見てどうなのか、を考えてしまう。客観的に見てしまうがゆえに楽しい場を「クソつまんなくて楽しい場」と思ってしまい、単純に楽しい場だと思っている人とは認識に齟齬が出る。

認識に齟齬がありこそすれ、私がその場を尊く大事なものだと思っているのは間違いがない。

しかし、そもそも何かにつけて客観的な視点を持ち込んでは第三者的な視点からジャッジメントする自分のそれは、もはや暴力と言ってもいいのではないかと思わされる。なぜそうやって第三者的な視点を持ち込みたがるのか。

なぜ純粋に「楽しい場」であると思えないのか?なぜ、“クソつまんないけど”という留保が必要になるのか?こういう問いに直面させられるのである。

私は客観的に物を見られますアピールなのか?なんなのか。そのように一見客観的に見ることが可能になったことによって失ってしまったものがあるのではないか?と思うのだ。

楽しい場を、楽しい場、ですますことができない、冷たく淡白で第三者からの評価という物差しを持ち込み必要のない注釈をつけたくなるような自分の認知にこそ歪みがあるのではないだろうか。

それでも、私にとってその場が楽しい場であることには変わりない。そしてそのような場を作っていきたいと思うし、作りたいと思ったので

私がサークルの代表であるときは、誰をも受け入れ、シャイン☆したい人には物足りないような場を作ったのだった。

私はシャイン☆したい人の居場所なんて他にいくらでもあると思ったし、ピアサポがそのようなシャイン☆したい人たちのユーモアに溢れた研鑽の場所になるのではなく、シャイン☆できない人たちのぐだぐだでどーしようもないがゆるく繋がって助け合ってやっていけるような価値観を重視したのだった。

私はすべからく自覚的にやってきたつもりで、でも、その場を受け継いでくれた人物は自覚的にぐだぐだでどーしようもない場を作るのではなく、自分のできる限りの範囲で楽しい場を作ろうとしているのであり、その指向はシャイン☆派の人たちと反発しない。シャイン☆派となんら違わず、楽しい場を作ろうとしているのだ。シャイン☆派は全然手伝ってくれないが。

果たして私のように自覚的になるのと、無自覚に楽しい場を作ろうとするのとどちらがいいのか、全く不明である。ただ、お互いにおぎあいながらやっていくことは可能なのではないかと思う。

そして、そう結論づけてもなお、目の前のことを単純に楽しむ姿勢こそ私に欠けている物なのではないかという思いがチラつきつづけるだろう…。私にとってYくんの純粋なその価値観は失われてしまった尊いものであり、それに触れるたびになんだか心からホッとし、穏やかな気持ちになるのだった。それはYくんの良さであり、すばらしいものだと思っているのだが、当人がどう思っているのかは知らない…。

シャイン☆な先輩のムーブに笑ってしまう私こそヤバヤバひねくれ太郎であることは間違いのないことだった。しかし一度ひねくれてしまったものはひねくれ太郎として生きていくことしかできない。同じようなひねくれ者であれば、シャイン☆先輩の面白ムーブを笑ってくれるだろう。たぶん。きっと。そういう人がいないとただ私がひねくれてやばい人間だということになってしまう!

しかし、このようなことをわざわざ長文で書いたのは誰かわかってくれるんじゃないかと思っているからである。私一人がひねくれたやばい人間だとは思いたくないからだ。でも、私一人が一人ひねくれててやばいのかもしれない。

 

しかしかし、もはや、できなさ、つまらなさの中にしかもはや安寧を見つけられない。できる、かっこいい、美しい、それらを信奉する人たちからの脅かしによって、しばしば劣位に立たされ、できない、つまらない、とされ放置され続けるものたちの中に光るような独自性こそが面白いのだった。商業ベースに流通するものたちのそのできる様や美しさは当然のものであり、当然の感動しか生まない。それぞれの個別性に根ざしたどこにも届き得ない語りとその切実さのみが面白く感じられるという私のフェチシズムの話である。

 

劣位に置かれているものこそ素晴らしい!開き直ろう!というムーブ自体はなんら真新しくもなく珍しいものではない。

劣っているものこそ素晴らしい、というある種の倒錯はいくらでもなされてきた。私が思っていることは、劣っているということを素晴らしいことだとして再度価値のあるものだとして位置付けるのではなく、価値のないものとして位置付けたままその価値のなさを踏まえつつも当たり前にあるその価値を再認識するというやり方である。地味だし別に誰かに認めてもらいたいとは思っていない。ただ、そうあることしかできず、そうあっているだけで、アジる気もない。誰も賛同者にならなくていい。私はそう思っているということを理解してほしい。が、別に理解されなくていい。

しかしほんと尊敬したくなるような先輩と巡り合えない大学生活であった。ダイバーシティインクルージョンな仕事をしているのなら、私生活でもそうあってほしいものだが、キラキラしてないものには興味がないのだろう。

 

 

 

 

栗原康の「村に火をつけ…」を読んで伊藤野枝に関心が生まれたので森まゆみ編「伊藤野枝集」を読んでみた。文章は良く書けてるけども、その思想においては真新しいところはなかった。当時からすれば真新しいところもあるのかもしれないが、今となってはこれといって評価するほどのところはない。もちろん、当時の価値観の中で自分を貫いたのはすごいことだと思うのだが。

 

友人なり恋愛なり、一対一の対人関係を形成することがつくづく困難であり、不安からの逃避としての嗜癖行動が多くなるし、一対多の薄くて何にもならない関係性の中でおいてのみそれなりに人間性みたいなものを発揮できる。それに、一人の人に対するよりも多数の私のことをよく見知っていない人たちの中で刺激の少ない生活を送っている時が一番安定するし、いかに薄くて何にもならない関係性の中に埋没できるか、みたいな切実さはそれなりに持っている。

 

私はそんなクソ真面目な人間であるつもりはないけども、労働はしないといけないと思っている。というか、この生活を続けるために労働が、お金が必要である。

実家で暮らしていた頃は両親の感情の機微の影響をまに受けて大変だったので、この一人暮らし生活における自由さを手放したくない。なので、どのような手段を用いても一人暮らしの生活を続けるために労働はするつもりであるし、労働をしないという選択肢がない。

ひきこもるよりもある程度無理してでも働いて自立できることがなんと素晴らしいか。フルタイムで働ける自分の特権性を思いこそすれ、働きたくないという気持ちはなくはないけど、あんまりない。

本当にいい暮らしをさせていただいている。なぜこんないい暮らしができているかというと運がいいからである。運のいい人間は周りの人を助けなくてはいけないだろう。なぜならそういうことになっているからである。